安寿と厨子王のお話 舞鶴市ホームページ(舞鶴市の民話より)
今から900年前平安時代のことです。陸奥(むつ)の国の判正氏の子
安寿と厨子王は父恋しさのあまり 九州の父を訪ねることになりました。
父は無実の罪で九州に流されていたのです。
九州までの道のりは遠く、母子3人は召使いと共に九州へ旅立ちました。
安寿16歳 厨子王丸13歳の時でした。
とちゅう”直江の浦“についた時、山岡太夫にだまされ、母と召使いは佐渡へ
売られ、安寿と厨子王の二人は船に乗せられ丹後.由良の湊へ送られた。
ここで二人は由良の山椒大夫のもとで毎日 潮汲みや捲き(まき)はこびを
させられました。
安寿と厨子王はくる日もくる日もなげきあい、そんな二人に太夫の三男 三郎は
いつもきびしい仕置きをしました。
二人は休みも与えられず、夜は粗末な家で寒さと空腹にふるえました。
「姉上さま、もう死んだほうがましです」
苦しさのあまり二人はひそかに逃れようと考えました。
二人は由良の湊を別々に逃れ出て 安寿は川向こうに 厨子王は山をこえて
和江の国分寺へと逃げ込みました。
川を渡った安寿は山また山のけわしい旅に疲れはて、ついに短い生涯を終えたのです。
国分寺へ逃れた厨子王は和尚とともに京へ上り父の潔白を将軍や朝廷にみとめさせ
やがて厨子王は丹後の国守になりました。
姉の死をしり、村人たちの苦しみを聞き 山椒大夫を丹後の国から追放したのです。
『かつえ坂』は安寿の最後の場所とされ 村人が手厚く葬ったと伝えられています。
後に丹後の国守となった厨子王が冥福を祈って建てた安寿姫塚が今でも残されています
▶陸奥(むつ) 今の福島 宮城 岩手 青森県と秋田県の一部 ▶太夫 地域の長(おさ)
▶国守(こくしゅ) 地方諸国を治める 国司(こくじ)の長